【知られざる名作】入学早々、先輩に名前を「ハイフン」と呼び間違えられた斉藤 一は、それ以降もその先輩に振り回され続けるが、いつしか先輩への気持ちは恋愛感情に変わっていた。だが、先輩には既に恋人がいて……。大学生の恋愛をリアルに描いたシギサワカヤ先生の『ファムファタル』は胸が苦しくなる名作
ファム・ファタル(あるいは「ファム・ファタール」と表記する場合も多いですね)とは”Femme fatale”、フランス語で「運命の女」という意味ですが、往々にして「男を破滅させる魔性の女」というニュアンスを持つことが多い言葉です。
本日ご紹介する作品は、手ごわい年上の女性、しかも彼氏持ち、をうっかり好きになってしまった哀れな男子大学生を描いた、恋愛漫画の名手・シギサワカヤ先生による名作『ファムファタル』(KADOKAWA、全3巻)です。
斉藤 一は大学三年生。所属するサークルでは部長を務めている彼は、「ハイくん」「ハイさん」などのあだ名で呼ばれています。それは一年生の春、入部届を出した際に、サークルの先輩・海老沢 由佳里が彼の名前「一(はじめ)」を「ハイフン」と誤読したことがきっかけでした。
親しみやすい……というか、からかうと面白いタイプである斉藤は、それから二年間、ずっと海老沢さんに振り回され続けることになるのですが、海老沢さんがただ傍若無人なだけではなく、時にはちゃんと気遣いができる人であることも、斉藤は薄々気づいていました。
「あのひととも こんなふーに話せたらいーのになぁ」
海老沢さんには彼氏がいます。その彼氏はサークルのOBであり、斉藤も面識がある人なのですが、二人の関係は最近あまりうまく行っていない様子。そんな中でも、涙をこらえて彼氏の部屋に向かおうとする海老沢さんを、斉藤は思わず引き止めそうになってしまいました。その時初めて、斉藤は自分が恋をしていることを自覚したのです。
しかし、斉藤が恋をしたのは色んな意味で厄介な相手。斉藤は海老沢さんのことを「ちょっと天然な人」ぐらいに思っていたのですが、海老沢さんのことを知れば知るほど、実は言動や行動にとても気を遣っている人だということがわかってきます。良く言えば誰も傷つけないし、悪く言えば誰にも期待していない……年上の彼女は、実はそんな振る舞い方をしている人だと、斉藤はようやく気づき始めるのでした。
海老沢さんだけではありません。海老沢さんの彼氏・石渡も。
斉藤に接近する一学年下の美女・空木も。
大学生や社会人ともなれば、誰しも思惑や打算に基づいて行動し、時には言葉の裏を読んだり、他人の行動をコントロールしたりといった駆け引きを行っていることを、斉藤は身をもって知っていきます。
良くも悪くも純朴で裏表のない斉藤が、大学のサークル内恋愛などという過酷な環境で勝ち抜けるはずもありません。まして、他人の彼女を奪い取るなんて。しかし、わかっていても止めることができないのが恋心。煩悶する斉藤の心を知ってか知らずか、海老沢さんは予想の斜め上を行く行動の数々で、斉藤をますます翻弄していくのでした……
『ファムファタル』の魅力は、何と言ってもリアルな心理描写。読んでいるうちに、本当に叶わぬ恋をしているような気分になってきます。そして、海老沢さんは小悪魔気質だけど性格が悪いわけじゃないところもポイント(いや、性格が悪いわけじゃない、と思うんですけど……もしかして筆者も術中にはまってるのかな……)。海老沢さんの本心が見えるようで見えない、最後までヒロインの心の底がわからない、そんな作品です。
2巻のあとがきでも「過去の古傷が開いた」という感想が寄せられていると書かれていますが、確かに読む人によっては「若かりし頃の失敗体験」を思い出して胸が苦しくなるタイプの漫画なのではないでしょうか。少なくとも筆者はこの記事を書くために全3巻を読み返し、だいぶ苦しくなりましたし何なら吐きそうになりました。(それぐらい胸に突き刺さる恋愛漫画だということです!)ヒリヒリした恋愛漫画が読みたい人に絶対的にお薦めできる作品ですね。
ここからはややトリビア的な話になりますが、海老沢 由佳里さんは実は三姉妹の末っ子。長女の海老沢 碧は『九月病』(白泉社、全2巻)のヒロインのひとりですし、次女の海老沢 佳織は『溺れるようにできている。』(白泉社、全1巻)の主人公です。作品どうしが世界観を共有しているのも面白いですね。
『九月病』は『ファムファタル』とは違う意味でとても重たい恋愛を描いた作品で超お薦めですし、『溺れるようにできている。』はハートフルがっかり(作者談)な恋愛を描いた作品でこれも超お薦めです。
ちなみに『溺れるようにできている。』の冒頭のシーンには、『ファムファタル』の由佳里さんも少しだけ出演しているのですが、『ファムファタル』で描かれているのとはちょっと違う表情を見せているので是非チェックしてみてください。やっぱり心の底が見えないヒロインなのです……。